大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和39年(行ウ)27号 判決

原告

戸田貞子

右代理人

滝内礼作

被告

社会保険庁長官

外一名

右代理人

藤堂裕

主文

被告社会保険庁長官の被承継庁厚生大臣が昭和三六年八月二一日付で原告に対してした船員保険被保険者戸田春市の職務上の死亡に因る遺族年金を支給しない旨の決定を取消す。

原告の被告社会保険審査会に対する請求を棄却する。

訴訟費用は原告と被告社会保険審査会との間に生じた分を原告の負担とし、その余を被告社会保険庁長官の負担とする。

事   実<省略>

理由

一原告の夫であり、船員保険被保険者であつた戸田春市が日本近海捕鯨船勝丸に砲手として乗組み勤務中、昭和三五年九月二四日午後五時四〇分頃、脳血管の病変を起し、右同日同船内において死亡したこと竝びに原告がその後厚生大臣の遺族年金の支給を求め、これに対する同大臣の処分及び被告社会保険審査会の裁決を理由として本訴を提起するにいたつた経緯に関する前掲原告主張事実は当事者間に争がない。

二原告被告社会保険審査会に対する本訴請求について<省略>

三原告の被告社会保険庁長官に対する本訴請求について

戸田春市の死亡が職務上の死亡に該当し、厚生大臣のなした原処分に判定の誤りが存したか否かを判断する。

(一)  事実関係

1  戸田春市が昭和三五年一月九日眼科医師の診断を受けたところ、右眼網膜出血、網膜黄斑乳頭部の上行外側中心血管に沿つて並ぶ多発性溢血、黄斑部の軽度混濁の所見があるとされ、同月一四日から同年三月一一日まで入院のうえ血管拡張その他の治療を受け、その後同年五月八日から一九日までの間に四回通院して右網膜出血の病名のもとに治療を受け、また四〇日分のルチノン、コンドロン等、血管拡張剤等の投薬を受けたことは当事者間に争がなく、<証拠>を総合すれば、春市は当時四三才であつたが、平素極めて頑健であつて、かなり陳旧な固定した肺結核の痕跡を有するほか格別の病歴がなかつたこと、そして眼疾治療のため前記のように入院した際には、軽度の右眼網膜血管硬化に基く網膜静脈血栓症を来たしていたが、退院時には血管硬化を残すだけで、血栓症は全治していたこと、また入院時に全身にわたつて精密検査を受けた結果においても、心、賢その他の内臓諸器管には、なんら病的所見が認められず、血圧についても最高水銀柱一五〇粍を超える程度の測定値に止まつたこと、なお右眼疾も軽症であつて、退院時には前記所見が消失したので、担当医師から、完全に健康を回復したものとして船員の重労働に耐え得るという診断を受け、その後は再発をおそれて念のため前記のように治療上、通院し、保健薬の投与を受けただけで、格別の異常を認められず、後記乗船に際しては、船内労働に適する旨法定の健康診断(船員法八一条、八三条条参照)を受けたこと、そして、右乗船後の操業期間中は不摂生はもちろん、飯酒もせず、同時に後記発病まで前記右眼網膜血管硬化の悪化その他の病変を示す顕著な自覚症状もなかつたことが認められる。

2  次に、春市が昭和三五年八月上旬北洋捕鯨から帰港後、会社の指令に基き一週間の休養を摂つただけで同月下旬から前掲勝丸に砲手として乗組み、同年九月一六日から二四日までの間、北海道、厚岸沖の漁場で捕鯨作業に従事して、六四頭のくじらを捕獲したこと、そして同月二四日には早朝五時から探鯨を始め、午後〇時四〇分頃いわしくじら一頭を発見して五分後に射止め、四時三五分頃まつこうくじら七、八頭の群を発見して追尾し、四時五〇分頃その一頭目を、五時一〇分頃(日没後)その二頭目を、五時四〇分頃(暗闇時)その三頭目を相ついで射止めたが、その間には射止めたくぐらに、その位置を知るため風船、灯等を取付け、または、そのくじらを船側に鎖でつなぐ作業を行うなどし、海上に浮流する収獲を集める作業に移り、これを午後七時頃終了したこと、春市が最後の発砲をした午後五時四〇分頃までは以上の作業を砲手として指揮したが、右発砲直後、船首歩道橋の手摺にもたれかかつて同船海士の眩暈と頭痛とを訴え、同航海士に導かれて砲手室のベツトに就き、「しばらく休息すれば治る」と言つて就寝し、午後九時頃には安眠している様子にみえたところ、翌二五日午前七時一〇分頃死亡しているのを発見されたこと、同船には医師が乗組んでいなかつたため、春市の発病後、船内で医師その他による応急の医療措置がなされず、同日午前八時三〇分頃釧路港において、医師の死体検案が行われたが、その結果、両眼瞼結膜は蒼白で溢血点でない、死斑は体の後面に存し暗赤色を呈する、死体強直は各関節に高度に存する、死因は前後の状況からみて脳溢血である、死亡時刻は前夜一〇ないし一二時と推定する旨の所見が出されたことは当事者間に争がない。

そして、<証拠>によれば、春市が右捕鯨作業のため砲手として乗組んだ勝丸は二五名の乗組を許される総トン数約四四一トン、全長約五七メートル余、最大速力一七・〇六ノツトの捕鯨船であるが、他の捕鯨船に比しても動揺が激しく、砲手台は、その先端、吃水線上約五・五米の高位置に設けられ、その前後、左右とも、ほとんど外壁がないこと、春市は、さような条件のもとに捕鯨船砲手として、勤務したものであるが、元来、捕鯨船砲手は捕鯨船の漁撈に関する最高責任者として、漁場を選択し、船長以下の乗組員に指示して当該漁場に航路を操らせる地位にあると同時に自己の発砲する銛の行手に全乗組員の作業の効率がかかるため、きわめて大きな責任を負担しているのであつて、例えば、近海捕鯨における就労の場合には、発船前日中、漁撈計画を研究、立案して、これに従い毎朝日出の発船以降、漁場の探索、海况の調査、僚船との情報交換、上司への報告(近海捕鯨株式会社にあつては一日七回所定時刻ごとになすべく定められている。)及び探鯨の指導等に従事し、その間、日出の約二時間後以降は概ね航海室において操船を直接指示し、いよいよ、くじらを捕獲すれば、その集鯨の時期方法等を選択して、その作業を指揮し、その収獲の引渡及び処理につき関係先と連絡して、日没ないし薄暮の時刻に探鯨を中止し、その後は集鯨作業があれば、さらにこれに従事したうえ、ようやく休息を摂るのが大方の勤務状况であり、また、くじらを発見した場合には、終始全速力で追尾し、これがため、特に動揺の激しい砲手台に立ち、夥しい波浪を蒙りながら、全乗組員を指揮し、かつまた、くじらが、その生態上、呼吸のために浮上する瞬間を捉えて発砲しなければならず、しかも、その発砲には、きわめて高度の精神的緊張が要求され、また肉体に対する激しい衝撃を伴うものであること、すなわち、捕鯨船砲手の職務は以上のような激務であるところ、春市は前記出漁において、これと同じような形態で就労したばかりでなく、先頃の漁獲高が少なかつた関係上特に作業を強化し午前五時頃の日出前に発進し、午後五時二〇分頃の日没後、薄暮の間にも、なお、探鯨を続け、そのため概ね午前五時頃から午後九時頃まで就労するのが例となり、しかも同年九月一六日以降の厚岸港沖における操業中、同月一七日、一九日及び二一日の三日間にはそれぞれ六時間、三時間及び四時間程度、砲手台に立つて漁撈全般を指揮し、同月二四日の発病当日には、その午後〇時四〇分頃から午後一時四〇分頃まで約一時間及び午後四時二〇分頃から午後五時四〇分頃まで約一時間余にわたり、右同様の勤務に服し、脳血管の病変に倒れるまで捕鯨操業のため精神的緊張及び肉体的負担の激しい労働を反覆継続したものであることが認められる。

3  そこで、以上認定の事実に基き、かつ前出鑑定の結果に拠つて、春市の死因となつた病変を医学的観点から考察してみると、医師による死体検案の結果、春市の死因とされた脳溢血の発病までに格別の前駆症状がなく、急速に眩暈及び頭痛を訴え、間もなく昏睡状態に陥り、遅くとも二四時間以内に死亡して点から推して、同人の死因は高血圧性脳出血の可能性が最も強く(春市が眼疾治療のため入院した際の血圧測定値は異常でないが、安静時のものであるから、これによつて右発作時における血圧を推測することはできない。)、次に動脈瘤による蜘蛛膜下出血の可能性があること(なお、被告は春市が網膜血管に異常があつた以上、右血管と密接な関係がある脳血管に潜在的な動脈硬化的病変が存し、これにより脳出血という決定的病変が生じて死亡したものである旨を主張するが、右網膜血管の病変は、その症状程度及び進行状况等に照し、脳血管硬化の病変が潜在したことまで推認させる資料とすることができず、したがつて被告の右主張は採用しない。また、春市が心、賢その他の内臓諸器官に、かねてから病的所見がなかつた点から推しても、糖尿病その他、アテローム硬化を伴う疾患、心臓疾患または臓器の塞栓によつて脳血栓症が起きた可能性は極めて乏しい。)春市の死因とみられる高血圧性脳出血または蜘蛛膜下出血のいずれかの病変とも、その原因の一つに遺伝的または体質的素因があるにしても、病理学上、その一過性の原因とされる血管壁の硬化、血圧の亢進あるいは動脈瘤の膨大の発生が外的素因たる精神的緊張及び肉体的過労の過剰な継続または反復によつて誘発されることを否定し得るものではないこと、したがつて、春市が眩暈に倒れるまで少くとも旬日に及び捕鯨船砲手として、前記のように極度の精神的緊張と激しい肉体的負担とを伴う作業を反復、継続して遂行した点に徴し、同人の死因となつた脳血管の病変は精神的緊張及び肉体的負担によつて発生したことに基因するものであることが認められる。

そして、被告は脳血管の病変に対する精神的緊張、肉体的過労等の外的素因で病理学的に意味のあるのは遺伝的または体質的素因を有する者につき発病直前に生じたものに限られる旨を主張し、外的素因だけで右病変が生じることを否定するが、前記認定を覆して右主張を肯定するに足る証拠はない。また、被告は捕鯨船砲手として経験の豊かな春市にとつては前記のような労働は常日頃、体験しているところであるから問題とするに足りない旨を主張し、なるほど同一作業に対する経験の積重ねが、その作業に対する馴れを生じさせることは理解し得るけれども、春市の労働に伴う精神的、肉体的負担が経験によつて医学上、問題とするに足りない程度に軽減される性質のものであつたという格別の立証がないから、被告の右主張は採用することができない。

(二)  法的評価

船員保険法五〇条三号の定める保険事故たる職務上の死亡(原文に戻せば「職務上ノ事由ニヨリ死亡シタルトキ」)とは船員の死亡が業務の遂行中(業務遂行性)、業務との相当因果関係の範囲内において(業務起因性)生じた場合を指すものと解されるところ、前記認定によれば、春市は捕鯨船砲手として、その職種に通常要求される作業中、これに伴う精神的緊張及び肉体負担から一過性の病変が反覆的または持続的に発生したことに基因する脳出血によつて死亡したものというべきであるから、右死亡が、いわゆる業務遂行性の要件を具備することは明らかであるが、一方、前記認定によれば、捕鯨船砲手という職種に通常要求される業務自体には右のような一過性の病変が発生する危険が内在するものと考えられるから、彼此綜合すると、右死亡には、いわゆる業務起因性の要件をも具有するものというべきである。

被告は業務起因性の具体的内容とされる病変と業務との相当因果関係の存在は当該病変の発生時に遂行していた業務が通常の業務範囲もしくは程度を著しく超えていた場合にのみ肯定さるべき旨を主張し、かような所論は通常の業務自体に当該病変発生の危険が内在しない職種については妥当するが、そのしからざる職種については妥当しないから、採用しない。

(三)  以上の次第であるから、春市の死亡は船員保険法五〇条三号の職務上の死亡というべきであつて、被告社会保険庁長官により権限を承継された厚生大臣が、これに反する裁定のもとに原告に対してした遺族年金を支給しない旨の処分は違法であるから、被告社会保険庁長官に対し、右処分の取消を求める原告の本訴請求は正当として認容すべきである。

四よつて、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条本文を適用して、主文のとおり判決する。(駒田駿太郎 高山晨 田中康久)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例